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 長野(2014)は、「動物病院ですべき臨床医の役割とは」の中で、マルセルの「問題と神秘」の命題を引き合いに、動物病院の役割が病気の動物を死なせてあげるためにあるのではないかという問いを提示しています。マルセルは、人には物事を理解する認識のあり方に2つの方法が存在し、一つは客観的に扱え、人がコントロールできる「問題」に属するものであり、もう一つは、人が巻き込まれそれ自体を生きるしかない「神秘」に属するものであるとしています。「問題」に対処するとき、人は事実を客観的に観察し、論理を使います。この方法論によって科学は発展してきました。しかし、「神秘」に近づこうとするとき、人は「問題」を解決する思考ではなく、謙虚、畏敬そして開かれた心で挑むしかないとしています。長野は、小動物医療に従事する獣医師は、「問題」に対する接し方は教育されているが、「神秘」に対する接し方を教わっていないことに警鐘を鳴らしています。

 矢野(2013)は、獣医療は技術的に高度に発展してきているが、飼い主は不治の病のペットの治療に対して実際には必ずしも「最新の獣医学知見に基づいた治療」を期待しているわけではなく、「獣医師の人間性等の資質」と「治療プロセスの適切な説明」を期待しているという仮説を提示しました。長野の指摘やこの研究結果を踏まえると、獣医師が不治の病のペットの治療を依頼されたとき、獣医師が期待される役割は、飼い主の話や要望を聴き、情報を提供し、飼い主が自身のペットの納得する死を迎えられるように調整することなのかもしれません。

 自身のペットが不治の病に侵された際、飼い主は、「神秘」の世界に足を踏み入れると考えられます。よって飼い主が納得するペットの死を迎えられるように調整するには、科学の事実や論理では不可能ではないかということを、長野の指摘は示しています。では、どのように対処すればよいのでしょうか。交流分析を交えて考えてみようと思います。

 ペットロスについて考える際に、人はグリーフ・モーニングの心理過程を経ることについて述べました。不治の病とペットが診断されたときも同様に、飼い主は衝撃期、悲痛期、回復期、再生期のグリーフの過程を経験することになります。交流分析的には、この時飼い主がラケット感情ではない本当の感情を表出できる環境が与えられることでグリーフやモーニングの過程は進んでゆくことが考えられることをお話ししました。このような環境が与えられることによって、心理的恒常性や人が持つ自律性が活性化されて人は癒えてゆくと考えられます。

 このことから言えることは、不治の病の治療において問題になるであろう「神秘」の部分について、獣医師や動物病院が飼い主に提供できるサービスは、本来飼い主がもつ心理的恒常性や自律性を阻害しないような関わりであるということだと思います。具体的にいえば、それは自分も他人もOKの立場から、あたかも飼い主と同じ場面にいるような心持で飼い主を傾聴し、ラケット感情に捉われないように接し、飼い主が有する自律性や心理的恒常性によって癒えてゆくことを信じるということなのかもしれません。

 このように考えると、謙虚であること、畏怖すること、開かれた心であることとは、交流分析的に言い換えると自律性を損なう行動・感情・考え方のクセを行わないように対話することとも言い換えられると思います。このようなことに注意しながら、獣医師は不治の病のペットを持った飼い主と対話してゆくことが望まれると考えられます。

不治の病の治療に対する飼い主の希望について

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