獣医師の人生脚本

 社会は、すべての人や動物に対して有益であるサービスを獣医師が提供できる能力があることを期待します。もし、獣医師が著しく歪んだ人生脚本を持っていた場合、そのことが悪影響を及ぼして動物病院利用者に不利益を与えてしまうことが想像されます。確かに、人間である限り多かれ少なかれ歪んだ人生脚本を持っていることは事実です。しかし、歪んだ人生脚本に気が付いていないとその悪影響がそのまま診療に出てしまう恐れがあります。治療者である獣医師は、利用者である飼い主や同僚である病院スタッフに悪影響を与えないようにするため、獣医師自身が持っている他人に有害な歪んだ人生脚本を自覚していることが必要であると考えられます。そして獣医師は、自身の持っている歪んだ人生脚本をコントロールする自律性の獲得を目指し業務にあたっていることが望ましいでしょう。

 獣医師である私はいったいどんな人生脚本を有しているのでしょうか。自分の持つ人生脚本に気づく第一歩として、獣医師という職種の人が、どのような人生脚本をもつ傾向があると考えられるのか知っておくとよいかもしれません。もちろん獣医師とひとくくりに言ってもいろいろな人がいますので、獣医師が持っている人生脚本も千差万別です。ただ、ある程度の傾向を想像することができます。

 獣医師が持っている人生脚本の傾向のひとつは、その職業選択の理由から想像される人生脚本です。獣医師である私はなぜ獣医師になろうとしたのでしょうか。この中には動物やペットに対して関わる仕事がしたいということが少なからずあったはずです。もし「子どものころに助けられなかった自分のペットに対する思い」「自分がペットに助けられたから」などの思いが根底にあったならば、その職業選択の理由は自我状態Cによって行われた幼児決断の可能性があります。

 この幼児決断によって職業を選択していること自体は否定的なことではありません。むしろ能動的に仕事に関わるモチベーションとなります。しかし職業選択に幼児決断が関係していることを自覚していないことは、人生脚本から負の影響を受けて業務上の支障を生むことがあります。

 たとえば、獣医師の燃え尽き症候群です。バーンアウトとも言われ、「献身的に努力したにもかかわらず期待した報酬・結果が得られなかった際に生じる徒労感や欲求不満が原因で心身の失調をきたすこと」を指します。欧米では獣医師の燃え尽き症候群に対しての調査研究の論文(Platt, Hawton, Simkin, & Mellanby,2012;Elkins & Elkins,1987;Elkins & Kearney,1992;Hansez,Schins & Rollin, 2008)があり、多くの獣医師が燃え尽き症候群の兆候があることが指摘されています。この原因として考えられることの一つとして「動物を助けたいとする幼児決断」によって、業務に駆り立てられている獣医師の姿があります。ドライバーに駆り立てられ、休みもとらず猛烈に働き、ワークライフバランスを崩し、仕事への情熱を持てなくなったり、体を壊したりする結果を招きます。幼児決断に駆り立てられ「苦労性」などの心理ゲームを演じてしまい、このことがバーンアウトに関係しているのではないかと考えられます。心身の不調に至らない獣医師でも、もしこの幼児決断に駆り立てられて仕事をしているのならば、何らかの葛藤を抱えながら業務を行っていることもあります。無意識に持っている幼児決断に駆り立てられ「今ここ」の自分の気持ちに正直に業務を行えていないこともあると考えられるからです。人は年齢とともに心身の変容を遂げることが自然です。幼児期と大人になった今では価値観も異なっていることが普通です。幼児決断と「今ここ」の自分に折り合いをつけながら業務を行うことが必要なこともあると考えられます。

 新卒獣医師が就職後のリアリティギャップに苦しみ早期に退職するケースを良く耳にします。このこともこの幼児決断が関係していると考えられます。「小さい時自分の飼っていたペットを助けられなかったから」「ペットを家族のように飼っているから」「ペットに助けてもらった」などの理由で獣医系大学に入学してくる新入生や動物病院に新卒で就職する獣医師は、獣医師の業務を自我状態Aが抑制されたNPやFCやACから生じた理想化された幻想(ファンタジー)によって認識している場合があるかもしれません。しかしいざ現実の小動物獣医療の現場では、診断・治療や人間関係においてAを普段より活性化させることを要求されるため、新卒の獣医師は自分の思い描いていた獣医師像とのギャップを感じてしまう可能性があります。このような背景で生じる自己の認識とのミスマッチ、仕事における“リアリティギャップ”は、新卒獣医師が早期に離職する一つのきっかけになっていることが考えられます。このようなリアリティギャップに対処するには、自身の職業選択の理由に自我状態Aで気付き、「実際に獣医師が社会的に求められることを就業前に実習などで知っておく」「現実的に自分のできる仕事の質と量を把握する」「いまここの自身の身体的・精神的健康度を見極める力を養う」など今行っている業務の再評価を行うことが必要と考えられます。

 このように自我状態Cから生じた幼児決断によって獣医師を志したような人生脚本を持っている人は、仕事への高い動機づけを持つ反面、現実に即してバランスよく仕事に対処してゆくことを苦手としていることが考えられます。自分自身の感情と環境の現実に折り合いをつけることが苦手という意味でCが活性化しているがAが抑制的であると言えるのかもしれません。

 もうひとつ、獣医師が持っている人生脚本の傾向は、獣医師と飼い主が主従関係のような関係に陥りやすいために、「自分はOK、他人はnot OK」といった獣医師の持つ第三の立場の人生態度が根底にある歪んだ人生脚本が強化されてしまう傾向です。パターナリズムやお任せ医療の影響で獣医師の自我状態はCPをとりやすく、このため独善的で価値を他人に押し付けるCPの否定的な自我状態の機能が現れます。このため、獣医師は、獣医療業務によって第三の立場が強化され「人は操作できる」「自分はすべて正しい」という歪んだ人生脚本の傾向を強めてゆく可能性があります。これは、獣医療行業務の中で治療者は、治療構造のコントロール、説得的コミュニケーションなど人や状況を操作する業務を日常的に強制的に課されるため、どうしても第三の立場の行動や思考が強化されやすい環境に置かれるためです。院長となれば、スタッフの教育や人間関係の調整など他人をある程度コントロールしなくてはいけない責任も加わってきます。よってますます第三の立場の人生態度は強化される環境に置かれていることになります。

 第三の立場の人生態度が優位な人は、攻撃性、優越感、競争意識、独善性、嫌悪感などのラケット感情を抱きやすいと考えられます。つまり、第三の立場を強化されている獣医師もこのラケット感情を抱きやすいと言えます。注意が必要なのは、第三の立場の人生態度を持つ人が抱くこのようなラケット感情は、自分をいい気分にさせ、自分は責められない感情であるため、自分で気づくことが難しい特徴がある点です。これは、第三の立場の人が抱くラケット感情の否定的な特徴であるとも言えます。逆説的ですが、この「気づきにくい」という特徴を知っていることは、獣医師が第三の立場に基づく歪んだ人生脚本を持っていることに気づくことを促します。第三の立場が優位な治療者は、「あなたのせいでこんなになったんだ」などの心理ゲームを演じていることがあります。この人生脚本をもっている治療者は、患者のためでなく治療者自身のために治療を行っていますので、結果としてそうなっていたとしても本当の意味で社会的な要望に応えて業務を行っているとは言えません。治療者自身がこのような人生脚本に気づくことが、社会的要望に応えるために必要となってきます。

 このように獣医師という職業を選択した理由から獣医師が持つ人生脚本を想像することが出来ます。そして、治療者である獣医師が自分の歪んだ人生脚本に気付いていることは、利用者の要望にこたえるサービスを提供できることに繋がってくると考えられます。ひいては獣医師の業務の社会的貢献度を向上させるうえで大切だと考えられます。