獣医療をひも解く心理学 〜Psychology for Veterinary care〜
前のページでインフォームドコンセントとそれにまつわる治療契約の概念についてふれました。言うまでもなく医療行為は治療契約に基づいて執り行われます。人間の医療、獣医療ともに治療契約がうまく結べなければ適切に治療を行うことができません。お互いに納得した上で治療者と患者が適切な治療関係を結ぶことが、治療者と患者が望む治療結果を生むことに繋がります。
この治療契約は精神医学や心理臨床において特別な意味を持ちます。なぜなら、精神医学や心理臨床での治療対象は目で見ることができない心や感情であって、他人である治療者から形としてみることができず、そのため、その心を治療するためには患者やクライアントの主体的な行為が必要になるためです。言い換えれば、患者やクライアントの治療をするのは精神科医やセラピストではなく患者やクライアント自身であり、精神科医やセラピストはクライアントが行う治療作業を伴走し援助することしかできません。そのため、治療契約によって治療作業の同盟(治療関係)を患者としっかり結ぶことこそ治療を成功裏に導く出発点となります。
治療対象(ペット)が治療契約を結ぶ人(飼い主)と違うという特徴を持つ獣医療においても、治療契約やそれを基に形成される獣医師と飼い主の治療関係は重要な意味を持ち、やはり適切な治療契約・治療関係を結ぶ必要があります。しかし、時に治療契約が不明瞭になることがあります。
たとえば、苦しむペットを見ていられない飼い主がペットの安楽死を望むようなケースです。獣医師は苦しむペットの治療を行いたいにも拘らず、飼い主は自身の心の安定を優先するための医療行為(安楽死)を希望しています。このようなケースでは、本来病気のペットを治療する目的のはずの治療契約や治療関係が、治療対象のペットのためのものか、それとも飼い主のためのものか、または獣医師の希望を具現化するためのものなのか、はっきりしなくなってしまいます。そして、このようなケースで、獣医師は、不快な感情や迷い、時に恐怖や怒りといった感情を抱いてしまうことがあります。
このような獣医療ケースで生じる心理的相互作用や獣医師が感じる感情は、精神医学や臨床心理学で用いられる転移・逆転移と呼ばれる現象によって説明することができます。このとき飼い主は獣医師に対して転移感情を、獣医師は飼い主に逆転移感情を抱いていると考えることができます。この転移・逆転移の現象は、時に獣医療の治療契約や治療関係を破壊することに繋がってくることがあります。
精神医学や心理臨床では、治療者と患者の治療関係には治療契約やインフォームドコンセントなどの合目的的な交流以外に、医療スタッフや患者がはっきり自覚していない無意識的な心理的相互作用が働いているとする、人間交流に生じる心理的現象を仮定します。この無意識の心理的相互作用を転移・逆転移と言います。患者が医療スタッフに無意識のうちに向けるこの種の感情、期待、空想、態度のことを転移、それを向けられた医療スタッフが患者に向ける無意識の感情、期待、空想、態度のことを逆転移と言います。
転移・逆転移の現象は、精神分析学において治療における手がかり、治療の主な要因であると考えられています。現在の精神医学や臨床心理学においても、セラピーの中で生じる重要な現象と捉えられていて、転移・逆転移の取扱いが治療の成否に大きな影響を及ぼすと考えられています。
一般に患者は治療者に対して実際の人物という認知に加え、様々な空想や感情、イメージを投げかけます。その空想、感情、イメージは自分の親だったり、学校の先生だったり自分にとって重要な他者のイメージを背景にしています。このように他者に対して自分の持っている空想や感情を投げかけて認識することを投影と言います。投影のため、患者は時に治療者に現実と異なった人間像をイメージしてしまいます。心理臨床においてセラピーが進むと患者は心理的に子どもがえりするようになりますが、心理的に子どもがえりすればするほど、重要な他者(特に父や母)のイメージを治療者に転移することになります。そしてそれを受けた治療者は患者に対して、喜び、悲しみ、恐怖、不快、嫌悪、怒り等の逆転移感情を抱くことがあるとされています。
精神医学や心理臨床において、逆転移感情は、まさに患者が感じている困難さと同質のものと捉えます。もし治療者がこの逆転移感情に気づいてその感情の意味を理解し、セラピーにおいて逆転移感情の意味を患者に丁寧に還元することができれば、治療者は患者に対して治療的な関わりを持つことができると考えられています。
転移感情は、好意、理想化、過度の期待、依存等、医療スタッフへ肯定的に向けられる陽性転移と、不信、反抗、過小評価等、医療スタッフへ否定的に向けられる陰性転移に分類されます。
逆転移は、患者の転移感情だけでなく、医療スタッフのおかれる個人的状況や性質も関係し、患者との相互作用の中で生じてきます。転移と同様に陽性と陰性の逆転移があります。医療スタッフが陽性の逆転移感情を抱いている時、他の患者に対してより贔屓してその患者に接していることがあります。また、陰性の逆転移感情を抱いている時、他の患者より過度の苦手感情を抱いています。このように、逆転移は治療者から見ると患者に「距離が近すぎる(陽性)」または「距離を置きすぎる(陰性)」態度として現れます。
治療者自身が持つ心理的トラブルが患者との関係の中で顕在化しているので、逆転移感情が生じているときは患者の心理的トラブルに巻き込まれすぎていることを示しています。逆転移感情をコントロールできていない状態では、治療契約やそれに基づく治療関係を明瞭に意識しながら治療を行うことができなくなってしまうため、本来の目的である患者の治療行為が充分に遂行できない状態になっています。このため、治療者側は自身の持っている逆転移感情に気づき、治療契約に基づいて行うべき「患者の治療」に専念するよう努める必要があるとされています。
獣医療でもこの転移・逆転移の現象が治療関係の中に働いていると考えられます。飼い主が必要以上に獣医師を持ち上げて称賛したり、はたまたその反対に大きな治療ミスもないのに飼い主が獣医師をこっぴどくののしったりすることがあります。獣医師がある飼い主のペットに対してはのめり込むように治療に没頭したり、また、その逆で特別なことはしていないのにどうしても苦手な飼い主が存在したりします。このような現象はまさしく転移・逆転移といえます。獣医師と飼い主がお互いに投影したり投影されたりして、現実のその人とは異なる人間像をイメージしてしまっていることに起因しています。そして、獣医師や飼い主の個人的問題や性質をそれらの転移・逆転移の現象の中に見ることがあります。
獣医療に働く転移・逆転移も「病気のペットを治療する」といった本来の治療契約やそれを遂行するための治療関係に対して否定的および破壊的に作用することがあるため、治療者である獣医師は転移・逆転移といった現象が治療者・被治療者の間で生じることを知っておいた方がよいと考えられます。特に、獣医師自身が抱くことがある逆転移について獣医師は、無意識から意識に上らせて対処することが大切です。飼い主が抱く転移感情については、獣医師がその感情に巻き込まれる(逆転移感情を抱く)ことがなければ、治療破壊的に作用することは少ないと考えられるからです。
交流分析の側面から転移・逆転移の現象を説明することができます。転移感情は患者から治療者に向けられた空想を伴った現実的でない人間像です。空想ですから自我状態Aの働きが弱められているか、もしくはA-Cの強い汚染が関係していると考えられる状態です。転移感情を向けられる治療者は、ふつうこの転移感情に接した場合交流パターンの違和を感じるはずです。なぜなら、患者は現実の治療者の自我状態に応じて交流していないと考えられ、時々無意識に交差交流や裏面交流を行ってしまっていると考えられるからです。もし治療者がこの時交流パターンの違和を感じなかったとしたら、逆転移感情を治療者が抱いていることが疑われます。治療者の持つ性質や個人的事情のため、患者の投げかけた転移感情を受け止める自我状態の違和に気づけていないことが考えられるからです。
転移・逆転移は意識されていない裏面交流にメッセージの本質がある相補交流として生じてくることも多いと考えられます。その裏面にあるメッセージの本質に治療者、患者とも気づくことができていません。この交流は心理ゲームそのものであることがわかります。このため治療者、患者ともラケット感情を感じています。
このように、交流分析でとらえると転移・逆転移という現象は、Aが抑制され、時にCから汚染を受けていること、そして、心理ゲームそのものであることが分かります。獣医療においても転移・逆転移感情に巻き込まれてしまうと、治療契約や治療関係が破壊されてしまうことがあります。転移・逆転移を回避し、獣医療の治療契約を達成するために、そこで生じている心理ゲームにAで気づき、ラケット感情を抱かないように対処することが必要となってきます。
転移・逆転移は、精神医学や心理臨床においては治療の手がかりでもあります。その人が人間関係において躓いている要因が転移・逆転移にあらわれているからです。獣医療において生じている転移・逆転移も同じです。その中に獣医師や飼い主が持つ個人的な問題が隠されています。獣医師が逆転移感情によるラケット感情に苦しんでいる時、たいていの場合飼い主も転移感情によって同様に苦しんでいます。このような認知で獣医療を行うことで、関わっている人の幸せを具体的に扱うことができる可能性もあり、獣医診療の幅を広げることに繋げられるとも考えられます。このようなことから、転移・逆転移という現象、その危険性と意味を獣医師が理解しておくことは適切な治療契約と治療関係を維持するために今後有用となってくるかもしれません。