今度は飼い主の人生脚本について検討してみようと思います。飼い主の人生脚本はどのような傾向があるでしょうか。

 もちろん飼い主はそれぞれ千差万別の人生脚本を持っていると考えられます。ただ、飼育動機になっている、ペットの与えてくれるストロークの性質とそのメリット・デメリットについて考察したことから、「ペットを飼育しようと思い飼っている人」と「ペットを飼育しようと思わない人」との間になんらかしらの違いがあるのではないかと類察することが出来ます。ペットが飼い主にとってディスカウントのない至上のストロークの供給源であることを踏まえると、ペットのストロークを必要としている人とそうでない人という相違から、その人のストローク授受の傾向が関係する人生脚本、人生態度時間の構造化の影響がペット飼育に関係しているのではないかと推察されます。特に、「捨て猫を拾ったから」とか「子どもがどうしても欲しがった」というような外在的な理由ではなく、その人が自発的に飼いたくて飼った場合、その飼い主はその人の人生の中でペットからのストロークを享受することを肯定的に受け止めており、動物飼育の動機はその人の人生脚本と密接な関係があると類推出来ます。つまり、人生態度や人生脚本の影響から「ペットを飼っている人」は「ペットを飼っていない人」にはわからない何らかしらの意味をペット飼育に見出しているのではないかと考えることができます。人生脚本がその人の生活の中での重要な決定に影響を与えてくることを踏まえれば、ペットの飼育動機そのものに人生脚本が関係しているのではないかということも推論出来ます。

 ここで「愛と依存」について整理し、人生脚本と動物飼育動機の関係について考えてみようと思います。

 人はペットに対して愛着感情を抱きます。この愛着感情が動機づけになってペット飼育が継続されると考えられます。“愛”着とは言いますが、この愛着感情は“愛”に基づく感情なのでしょうか。

 “愛”とは、宗教的視点によって「アガペー」「慈悲」「仁」「徳」、向けられる対象によって「家族愛」「自己愛」「母性愛」「性愛」などと分類され定義づけされてきた歴史を持ちますが、日常的には“いつくしむ”“自分のことのように思いをはせる”“めでる”といった意味として用いられています。心理学や精神医学においても“愛”は定義づけをされています。アメリカの精神分析医であるM・スコット(1978)は、「愛とは、自分自身あるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志である」と定義しています。また、精神分析学者のE・フロム(1956)は「愛は技術だ」とし「愛する技術は、先天的に備わっているものではなく、習得することで獲得できる」としています。経済学者でもある飯田史彦(2002)は「愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である」としています。これらの愛の定義は、愛が“いとしい”、“かわいい”などの感情的な思慕だけでは成立することはできず、相手の幸福や成長を願う理性的な意志や行動が伴うものであるということで共通しています。交流分析のゴールである“自律性の獲得”も精神的成長を培うための意志の力が必要となるため、“愛”の実現は“自律性の獲得”の延長線上にあると考えて差し支えないと思います。

 ところで、対象に心奪われるという部分で共通点がありますが、愛に似て非なるものとして“関係への依存症(嗜癖:アディクション)”があります。依存症は、簡単にいうと“繰り返す悪い癖”です。酒や薬物等の物質嗜癖やギャンブル等のプロセス嗜癖はよく知られていますが、恋愛嗜癖(ストーカー)や共依存等、人との関係に執着する関係嗜癖と呼ばれる依存症が近年問題になっています。依存症者は、子供の時に不安定な養育環境を経験していることで、親に見捨てられるのではないかということから生じる漠然とした不安を大人になってからも抱き、自身の存在を卑しめられた屈辱感やそのために生じた世の中に対して慢性的な空虚感を有しています。そしてこれらの感情を外からの力(物質やプロセスや関係)を借りて埋めようとするため、常同行動として嗜癖を行ってしまうのです。関係嗜癖の場合は単純に特定の関係に固執する性質が認められるだけでなく、必要以上に他人の問題にお節介に入り込み救済者になろうとする、他人が落ち込むのを見ると必要以上に自分も滅入ってしまい人の気分を変えようと必死になってしまうといった行動パターンが見られることがあります。これは、一見すると人を思いやり、慮っているように見える行動ですが、相手の幸福や成長を願う理性的な意志に基づく行動ではありません。自身の空虚感を埋め、自分の存在の安定感を得るための行動です。ここが愛と関係嗜癖の行動における決定的相違です。

 愛と依存は、交流分析的にどう捉えることが出来るでしょうか。愛が他人を思いやる意志であれば、愛の感情と行動にはAが働いているはずです。そしてAによってPとCの機能を統合しバランスよく発揮させている状態であると考えられます。愛の行動には規律や思いやりなどに関係するPの機能や喜びや悲しみなどの感情や相手に合わせる適応性などに関係するCの機能の肯定的な部分がAによって調節されてTPOに合わせて適応的に表出していると考えられるからです。逆に依存は自分の安定感を得るための行動であり、愛と同じ行動や感情表出をしていても、その裏に自分の利益を最優先している感情が存在しています。そしてこのことにAで気づいていないため、Aの機能が働かずPとCの自我状態の統制がおこなわれていない状態と考えられます。また、愛は相手に対してディスカウントがない感情や行動の表出だとみなすことができますが、それとは正反対に依存はまさに相手をディスカウントしている感情や行動の表出であると言えます。このように考えると、愛は交流分析の目標である、気付き、自発性親密性からなる自律性を獲得する活動ですが、依存はこれとは正反対の活動であると言えます。

飼い主の脚本とペット飼育の動機

ペット飼育にまつわる愛と依存

 さて、ペット飼育の動機は愛のためでしょうか。依存のためでしょうか。愛と依存の相違を振り返れば、その人にとってペット飼育がその動物への愛から動機付けされたのか、依存から動機付けされたのかが理解できると思います。

 そして、ペット飼育が愛か依存かという境界線をはっきり厳密に区別することは難しいことなのかもしれません。ペット飼育の動機は意志と感情が複雑に入り混じったところに存在すると考えられるためです。ペット飼育における愛と依存の分類は、愛の部分が多い、依存の部分が少ないといった、スペクトラム(連続的な分布範囲)な区分をするのが妥当なのかもしれません。

 ただ、もし飼育開始が依存から出発していたとしても、そこから“ペットへの愛”に昇華されてゆく飼い主‐ペットの関係は大いにあり得るのではないかと考えられます。ただそのためには、飼い主はおそらくA(理性)を働かせ、自分の本当の気持ち(愛か依存か)に気が付く必要があると考えられます。ペットへ愛着が本当の愛だとすれば、それは精神的成長を志向する意志なので、飼い主において、自身とペットの自律性を目指す意志が働いているはずだと交流分析的に推察することができます。

 ペットとの関係が愛に近い飼い主は、おそらくAが活性化しています。そしてペットへの愛の意味に気が付いて、PとCの自我状態を統制できています。このような飼い主は、ペットのための情報をあらゆる方法で収集し、最良の方法をどうすればよいのか常に模索し、適切に判断しています。このため、ペットの本来の動物としてのあり方を学び尊重し、だからと言ってペットの野生の部分を出しすぎることが人間との共存において人と動物両者に不都合を生じさせることを理解しており、その妥協点としての飼育方法(たとえば屋内飼育や不妊去勢手術の実施など)を理性的意志によって決定しその飼育方法を実践することを考えています。そしてペットに依存している自分自身に気づいています。それが、ペットの健康や他者(家族・隣人・社会)に影響の出る依存行動であれば、何とか依存行動をやめようと対策を練っています。ペットへの愛に気づいている飼い主は、自分がペットに対して抱いているディスカウントに気づいて葛藤しています。病気になったペットを抱えているならば、治療の判断をできないペットに代わって、治療をする方がよいのかしない方がよいのか葛藤しています。その治療が自分の心の安定のために行われていないか、本当に自分のペットのためになっているのか悩んでいます。

 このようにペットへの愛に基づく行動は、飼い主によってある程度の多様性はあると考えられますが、基本的に自分とペット・他人・環境に対する理性的意志・配慮がある行動と考えられます。本当にペットを愛している人は、このように考え行動しているため、自律的に自身の人生脚本を構成して勝者の脚本を生きていると言えます。

 しかし、ペットとの関係が依存に近い場合、これとは反対の感情や行動を飼い主は示します。つまり、飼い主は歪んだ幼児決断に支配された形でペット飼育を行っています。後先も考えずにただ“かわいいから”“かわいそうだから”と衝動的にペットを手に入れて飼育しています。自分の衝動もペットの行動も自律的にコントロール出来ずにいます。そして、自分がペットの存在をディスカウントしていることに気づいていません。このため、自身の飼育能力を超えた頭数や種類のペットを飼育してしまう、飼い犬を散歩に連れて行かないでずっと繋ぎ飼いしてしまう、ペットに明らかに害を及ぼすような食べ物を与えてしまう、自分のペットがした糞を道にそのまま放置しまうなど、飼い主の責任をディスカウントした結果を招いています。つまりこのようなケースでは、ペット飼育が関係依存に基づいていることが疑われます。

 このような依存に基づくペット飼育は“敗者”もしくは“非勝者”の人生脚本が関係している可能性が考えられます。ディスカウントに基づく人生脚本を有しているため、飼い主自身の能力、ペットの存在などをディスカウントしています。“敗者”もしくは“非勝者”の人生脚本を持つ人は、自分に自信がない、他人に対して不信感を持つ、過去を後悔しとらわれている、今や将来に不安がある、人との交流は消極的で閉鎖的、環境に影響されすぎ自分のコントロール感を失っている、自分で自分の人生の責任が取れない、物事に対して中途半端に対応するなどの特徴があることは先に説明した通りです。

 ペット飼育のメリットでありデメリットであるのは、いかなる飼い方をされてもペットは飼い主にディスカウントのないストロークを与え続けてくれることです。このためペットを飼育することで人は明るく豊かな生活を享受できる反面、不安、社会的適応への問題、後悔、自己統制感の不具合などから目を背けて生きることができるようになります。ペット飼育には、人の中にある問題をとりあえず棚上げする効果があると考えることが出来るでしょう。確かに歪んだ幼児決断や人生脚本の影響で人は“自分または他人はnot OK”の人生態度をしばしば持っています。そして自分を見つめて、ありのままの自分を承認してゆくように変革していくことは非常に過酷な作業なので、一時的に自分の問題を棚上げすることが必要になる時もあると考えられます。しかし、ペットに依存することで自分の歪んだ人生脚本を棚上げし見ないようにし続けるのならば、ペットたちは私たちのことをどう考えるのでしょうか。ペットは、飼い主にディスカウントのないストロークしか与えてくれないので、この問題点に私たちは気づきづらいですが、ペットたちがくれるストロークにこたえるために、私たちはこのことを考えていかなければならないでしょう。

 逆説的ですが、ペット飼育のこのようなデメリットが世の中に広く知れ渡るようになることがこの問題を解決する方法であると考えられます。「“勝者”の人生脚本に基づいて人がペットを飼育するようになる」、その一つの方法として提案したいのは、このようなペット飼育メリット・デメリットに対する認識を持った専門家に飼い主が情報を聞ける場を設置することです。その専門家としてペットショップや動物病院やペット美容室は重要な機能を果たすと考えられます。交流分析的に明らかにされるこのようなペット飼育のメカニズムを動物病院やペットショップが世間に浸透させることで、ペット飼育を通じて実践される人生脚本の変革を含めた“ペットへの本当の愛”を普及させることに繋げられるのではないかと考えられます。