獣医師の理屈、飼い主の理屈

 近年の獣医療は技術的にも理論的にも大きく発展しました。病気を診断する際にPOMR(Problem-Oriented Medical Record;問題指向性医学情報記録システム)やPOS(Problem-Oriented system;問題志向型システム)などの問題解決的な分析方法に則り、科学的に病気を診断し治療をおこなう診断方法論が多くの病院で採用されています。そして科学的診断方法によって導き出された鑑別診断を絞り込むために、CTやMRI等の人間医療並みの高度診断機器を利用することも当たり前になっています。加えて多くの動物病院で人間の医療並みに患者(飼い主とペット)の権利を尊重するようになってきているため、エビデンス・べイスド・メディスンやインフォームド・コンセントに力を入れるようになってきています。このように獣医療は科学的に大きく発展しました。近年では多くの動物病院で発展した獣医療を受けることが可能となっています。

 しかし、獣医師である私は、この科学的に大きく発達した獣医療では歯が立たないケースを診察室で毎日のように経験しています。その中の一事例として犬の皮膚病の転院事例をあげて検討してゆくことにします。

 皮膚病は、犬種や性別年齢などの基礎情報や皮膚病変の部位、かゆみの程度、皮膚掻把検査の結果から鑑別診断をあげ、その鑑別診断に基づく診断的治療への効果を評価することで確定診断へと導く治療方法が科学的に妥当な治療方法と現在考えられています。私が皮膚病の事例を治療する際、たいていの犬で病歴などから食餌性アレルギーやアトピー性皮膚炎などアレルギー性皮膚炎の鑑別診断を考えながら治療を進めます。この事例でも同様に治療を進めることになりました。皮膚病の治療手順の説明をして、飼い主さんに話を伺うと、以前に通われていた病院でも同じことを言われてアレルギーの血液検査をしていることを語られました。

 アレルギー性皮膚炎は、アレルギー物質の除去を含めたアレルギー物質の特定や皮膚のコンディションの適正化を目指す必要があります。このようなことを実現するために食餌の改善・適正化を考える必要があることに同意される獣医師は多いと思います。そこで飼い主と次のようなやりとりをすることになりました。

 

私:「この子の皮膚病の原因には、アレルギーが関与している可能性がありますね。」

「前の病院でアレルギー物質を特定する検査もしておられるようですので話を聞かれていると思いますが、アレルギー物質を取り除いてゆく飼い方を考えていかなければならないでしょうね。そのためにまず、適切な食餌を与える必要があります。」

「で、お伺いしますが今この子は何を食べていますか。」

飼い主:『動物病院で処方してもらっている低アレルギーフードです。』

私:「では、低アレルギーフードと水だけで飼われているわけですね。」

飼い主:『あと、この子が好きな犬用のジャーキーと時々人間の食べるものを与えています。』

 

 「えっ!。」ここで、いつも私は絶句します。前の病院で検査を受けて、アレルギー物質を特定し、アレルギー除去食の治療を開始していながら、治療上の重要な部分が守られず治療が破たんしてしまっているからです。他の食餌を与えることによってアレルギーの除去食試験の結果を評価できなくなり、何万円もする高価なアレルギー検査やキロ数千円もする高価な低アレルギーフードを与えることの意味がなくなってしまっています。獣医師である私は困惑します。頭の中には“皮膚病を治す”治療法があります。でも、この飼い主さんではそれを実現することが難しいのではないか・・。

 

私:「低アレルギーフードと水だけである程度の期間飼わないと効果を判定できないことは説明を受けていますよね。」

飼い主:『はい。だけどこの子はジャーキーが大好きで、目が合っちゃうとあげないわけにはいかなくなっちゃうんです。それと、同居しているおじいちゃんが、晩酌のたびに自分の食べているつまみをあげるんですよね。注意はするんですけど。』

 

 犬はものすごく肥満しています。これでは皮膚のコンディションを向上してアトピーの痒みをコントロールするのは難しいだろうと考えられます。

 

飼い主:『この子一晩中掻いて眠れないくらいなんです。見ていてかわいそうです(涙)。子供も手が離れちゃって、この子だけが生きがいなんです。おじいちゃんも持病があってあとどのくらい生きられるか・・。だからこの子との晩酌を楽しみに生きているんですよね』

 

 飼い主さんにもそれなりの理由があり、この飼い方を継続していることが語られます。「で、でも・・・」と獣医師である私は困惑を深めてゆきます。

 このような人間側の事情が関係する問題は動物病院で日常的に頻発しています。同様の経験をしている獣医師は多いのではないでしょうか。飼い主はペットを非常に可愛がっていて、治療に積極的です。動物病院を転院してでも治療をしようとしています。しかし、そのペットを想う感情が仇になり、ペットに適切な食餌を与えることが出来ないのです。ペットを治療したいと思う飼い主によって治らない原因が作られてしまっているという皮肉が生じてしまっているのです。

 どうして治療に良くない食べ物を飼い主がペットに与えてしまうのでしょうか。味気ない低アレルギーフードだけを与えられることを、飼い主自身の身に置き換えて感じてしまい哀れと思うからでしょうか。それとも、飼い主がペットにジャーキーを与える悪影響を理解していない、または軽視してしまっているからでしょうか。それとも、ジャーキーを与えないとペットが飼い主を見てくれないからペットの気を惹きたいあまり与えてしまうのでしょうか。このように考えてゆくと、この治療上のジレンマを生じさせている飼い主のペットを想う感情は、その飼い主がペットを飼育している動機・理由にまで繋がっていることがわかります。『見ていてかわいそう』『生きがいなんです』といった語られる内容から、飼い主は感情的で制御され難い動機・理由によってペットを飼い、動物病院で治療を受けさせ、治療上のジレンマを生じさせていることが伝わってきます。