獣医療をひも解く心理学 〜Psychology for Veterinary care〜
ペットへの愛着が、健康的な“愛”と不健康ともいえる“依存”に分けられることを前項で触れました。ペットへの愛着について考えるとき、その愛着が飼い主にとって健康的なものか否かを判断する一つの手段として「共生関係」という考え方が交流分析にあります。
交流分析の学派であるシフ派の理論によれば、共生関係とは2人またはそれ以上の個人がまるで一人の人間のようにふるまう時に起こるとされています。共生関係にある人は、一人の個人レベルではP、A、Cすべての自我状態を充分に活用しておらず、他の人と合わせて初めてP、A、Cの自我状態を充分に活用できるような関係をとっています。よって、共生関係でみられる特徴はその片方がいなくなるとき、もう片方は「相手がいなくなったら立っていられない」と信じていることです。たとえば、極度の母子依存(いわゆるマザコン)の母と子どもなどのケースやストーカーのケースで共生関係が認められます。
極度の母子依存のケースを例に挙げて、共生関係の自我状態について説明してみます。このようなケースでは、PとAの部分は母親が担い、子どもはCの部分を担っていて、二人でようやくすべての自我状態を活用できる関係になっています。母子依存の子どもはPやAを働かせていないため責任を持って自分で物事を決めるということができません。子どもが働かせるべきPとAの自我状態はすべて母親が担っています。母親も自分のCの自我状態を子どもに担わせています。このため、母親は、FCを働かせて生きていないため、その子がいないと人生を楽しめず、一人では自分の人生を楽しむことができません。母と子がともに寄りかかるようにして自我状態を補填し合っているため、母子とも自律性を獲得するような成長的変化を生むことができず、このような共生関係では歪んだ人生態度・人生脚本を持つに至ってしまいます。
ペットへの愛着と共生関係
動物病院では、このような共生関係がペットと飼い主の間で生じている事例に遭遇することがあります。ペットと共生関係にある飼い主は、ペットへの強い依存を持っています。そして、ペットなしでは冷静な状態で日常生活を送ることが出来なくなっています。このような共生関係にある飼い主は、ペットに何か些細なことでもトラブルが生じた場合、派手なラケット感情を示します。たとえば、爪切り時の出血など、障害が残るとも考えられない獣医療ミスが生じた際に大げさな剣幕で施術者をこけおろしたり、獣医師の一言一言に一喜一憂し、まるでジェットコースターに乗ってでもいるような感情の起伏を示したりします。このような飼い主は、自身の自我状態をディスカウントしています。そして、それに応じて他人や環境もディスカウントします。言動をよく観察すると、ペットとの心理的距離が近すぎてペットと一体化しており、自身のP、A、Cのどれかをペットに担わせ、働かせないようにしていることが分かります。
ペットはふつう柔らかく、愛らしい容姿や子どものような振る舞いを見せるので、このような飼い主はペットにCを担わせ、自分のCをディスカウントして働かないようにしていることがよく認められます。C以外の自我状態をペットに担わせている飼い主も時々存在します。たとえば、Aをペットに担わせているために、重大な決定をしなければいけない時に考えることが出来ず何も決めることが出来ないような飼い主が存在します。前述したとおり、ペットはディスカウントのない飼い主にとって至上のストロークを与えてくれます。このような性質のため飼い主のAを抑制してしまう効果があることを説明しました。このため、時にペットにAをゆだねてしまっているような関係が飼い主との間に認められるのかもしれません。
ペットにCを担わせる共生関係
共生関係は健康的なものと不健康なものがあります。この違いはディスカウントを含むかどうかです。健康的な共生関係に医者‐患者関係があります。患者は病気のためにPとAが働かず、それを治療者である医者や看護師に委ねてしまいます。医療者も患者が治ってゆくことを願って共生関係を築きます。そして、治療者のPとAが患者のCを保護し保証を与え、患者にとって治療的に働いてゆきます。この共生関係では自分、他人、環境のディスカウントがありません。このような共生関係は関わる人の自律性を障害しません。
他方、病的と捉えられる共生関係には必ずディスカウントが存在しています。例に挙げた過度の母子依存の関係やペットとの共生関係は自分または相手の能力のディスカウントが入ってきます。一方が一方の能力をディスカウントするために、その人たちにとって居心地のいい共生関係が維持されてゆきます。ペットは言葉を話さないので、飼い主の固定観念や妄想をペットに当てはめていたとしても、ペットは文句を言いません。そして至上の無条件ストロークを与え続けてくれます。このため、ペットは人にとって格好の共生関係対象であると考えられます。ペットと共生関係を築いている飼い主は、ペットが自分と同じ考えを持つものと捉えてしまい、ペット自身がもつ本能・感情・生理をディスカウントした飼育方法をとるようになります。
不健康な共生関係は、人が自律的に生きることを障害します。これは、交流分析の目指す目標と反します。共生関係は人が自分の能力を発揮して、自分らしく生きることを障害すると言えます。つまり不健康な共生関係は、幸福の実現や自己実現を遠ざけてしまうことに繋がってゆきます。ある対象(人やペット)と共生関係を築いているのであれば、その関係に気づき、発揮できていない自我状態を回復し、共生関係から脱却してゆくことが望まれます。しかしこれはとても難しいことでもあります。
私たちはなぜペットと共生関係を築くことがあるのでしょうか。共生関係は、その人が子ども時代に満たされなかった発達上の欲求を満たそうとする人生脚本が関係しているといわれています。つまりペットと共生関係を築いてしまう人は、子どもの頃に満たされなかった役割をペットとの間で再演していることが考えられます。飼い主のAをペットに担わせる共生関係では、飼い主自身が自身の養育者のAからAを育むような適度な反応性を持った養育的なかかわりを受けられなかったことが関係していると考えられます。このような人は、ペットからのディスカウントのないストロークの中にAを見て、Aを働かせずに過ごすことが出来た自身の養育者との関係をペットとの共生関係の中で再演しているのかもしれません。また、飼い主のCをペットに担わせる共生関係では、養育者との関係で飼い主自身のFCを充分に発揮できない環境で生育してきたことが関係しているのかもしれません。このような人は、自身のCの役割をペットに背負わせ、そのペットをPやAを用いて養育し共生関係を築くことで、自分の生きられなかったCをペットに再演してもらっているのかもしれません。Pの役割を演じてしまうペットと共生関係にある飼い主は、幼児決断において「私やペットを取り巻く養育環境はよろしくない。私が親になり替わってあげるのがペットにとって一番良い方法だ」と考えています。このような感情が強い飼い主は、幼児期に自身の親から「親を困らせないようにしなさい」と両親の感情と幸せに責任をとるように要求されて、親の喜ぶようにふるまうことが良いことだと幼児決断している可能性があります。そこでCの役割を示すペットに対して自分のCをディスカウントして関わることを望むようになります。「私の言うようにしなさい。それがあなたの幸せなのよ」という意識でペットとかかわりを持ち、 「あなたはnot OK。私はOK」という人生態度に支配された脚本を証明するようにペットを養育していることが考えられます。
このように、ペットと飼い主の間に共生関係が疑われたならば、この共生関係は飼い主の歪んだ幼児決断が大きく関係していることが考えられます。共生関係に関係する歪んだ幼児決断は、幼少時代その人が経験した生存にかかわる恐怖を避けるために行われたものです。このため、この幼児決断を取り壊すことはその人にとって死に直面するほどの恐怖心を抱かせます。だから、人はふつう共生関係を壊して、自身が幼少期に感じていた恐怖を再び味わいたいとは考えません。このような人の中でもし共生関係が壊れたならば、その関係に過度に固執し、何としてでもその関係を取り戻そうと無理な努力をするか、共生関係を築ける別の対象物で補填する行動をとります。ですからペットと共生関係を送ってきた飼い主がその共生関係対象を失ったとき、普通「代わりのほかのペットを飼う」ことで対処します。自分の生きられない自我状態を、代わりのペットで再び補填するといった行動をとります。共生関係を送っている人にとって、この共生関係対象の補填は、「生か死か」を迫られるほどの恐ろしさを回避するために選択した決断で、本人にとっては最善の決断であるのかもしれません。
私たちが本当の意味で不健康な共生関係を断ち切るには、歪んだ幼児決断を捨てその人が自分で立つ覚悟をする必要があります。そのためには自分の持つ不健康な人生脚本への洞察を深める必要があります。これは、共生関係を築く人にとって恐怖と苦しみを体験する、非常に困難で創造的な作業になります。多くの時間と専門的な援助的サポートが必要になってきます。不健康な共生関係を断ち切ることは非常に難しいことなのです。このような幼児決断への気付きを促す作業は動物病院では扱うことが出来ません。そのような動機付けで飼い主が動物病院を訪れているわけではないからです。歪んだ幼児決断への気付きを飼い主が志向したときに初めて共生関係の改善に対応することができ、その時は専門家が介在した中長期的な援助が必要になります。
現代を生きる人は、多かれ少なかれ物質依存や関係依存を有しているといわれています。そして、社会的に許容される依存症であれば、それに依存することで他の社会的に許容できない依存症になるのを抑止している効果があるとも考えられています。ギャンブルや違法薬物への依存では社会的に問題を引き起こしてきますが、コーヒーやジョギング依存などであれば社会的に許容されています。ペットとの共生関係もいうなれば社会的に許容される依存症と言えるのかもしれません。そしてペットと共生関係にある人からペットを取り上げることは、他の社会的に許容できない依存症を招くことに繋がるのかもしれません。このような観点から論じる場合、ペットとの共生関係はその人にとって最良の選択といえるのかもしれません。
ただ、ペットとの共生関係で、ペットの権利を侵し、健康を害し、動物愛護上の問題が生じることがあるので、ペットとの共生関係とその弊害についての見解を社会的に広く普及させるための活動は今後必要になるのではないかと考えられます。
理想的なペットとの関係は、ペットと共生関係になることではありません。ペットとの関係の中で自分の自我状態を活用することをディスカウントせず、なおかつペットをディスカウントしない関係です。このようにペットと付き合うには、前項で触れたようにまず「ペットの飼育動機が自分の有する人生脚本に根差しているのではないか」ということに飼い主は気付いている必要があると考えられます。
人の孤独や寂しさをディスカウントのないストロークによってペットは癒してくれます。孤独や寂しさからペットを飼育することは決して悪いことではないのです。しかし、孤独で寂しいからと言ってペットを私たちの自我状態を担わせる代替物にしてしまうことは、ペットを人間にとって都合の良い動くおもちゃにしてしまうことと同じです。私たちは、自分がどうしてペット飼育に魅力を感じるのか、ペットは自分にとってどのような存在なのかを客観的に評価し、ペット飼育の動機に対して自分なりの回答を持っておく必要があるのではないかと思います。また、ペットと共生関係を築かないためには、私たちは飼育するペットのことをもっと知る必要があると思います。ペットは、その動物種特有の本能・感情・生理を有しており、適正な飼い方があります。ペットの飼い方を本で勉強したり、動物病院やペットショップなどの専門家からそのペットの飼育方法についてアドバイスを受けたりして、ペットのことをよく理解し尊重する姿勢をとることがペットと共存する人間にとって必要なことだと思います。このように私たちがAを働かせて、自分の置かれている状況、ペットが置かれている状況を把握してペットと付き合う時、自分もペットも尊重できる、「自分もペットもOK」の関係を築くことが出来るのではないかと考えられます。
共生関係
一人の個人レベルではP、A、Cすべての自我状態を充分に活用しておらず、他の人と合わせて初めてP、A、Cの自我状態を充分に活用できるような関係。過度の母子依存の子どもはPやAを働かせていないため責任を持って自分で物事を決めるということができない。母親は、FCを働かせて生きていないため、その子がいないと人生を楽しめず、一人で自分の人生を楽しむことができない。
過度の母子依存(いわゆるマザコン)
ペットにAを担わせる共生関係
ペットと飼い主の共生関係
飼い主がペットにCを担わせる場合とAを担わせる場合が認められる。
共生関係の健康度
共生関係は健康なものと病的なものがあり、前者にはディスカウントがないが後者にはある。
共生関係は幼児決断や人生脚本が関係してくる。病的な共生関係は自律性を損なう可能性がある。